説話『言葉は心』(中国の僧の言葉より)

『一つの言葉で喧嘩して 一つの言葉で仲直り 一つの言葉で頭がさがり
 一つの言葉で笑い合い 一つの言葉で泣かされる』
処世上の格言に、「円い卵も切り様で四角、物も言い様で角が立つ」といわれるように私達は日頃、言葉に注意しているつもりでも、時々うっかりしたこと、心にもないこと、或いは余りにも切実なことなどを、ふと言ってしまって、相手に不快感を与えたり、驚きを感じさせる場合があります。そういう時にはつくづく言葉の難しさを感じます。
言葉は人間の意思を反映した表現であることには相違ないのですが、その場の状況や空気や相手のことを心の中で考えるゆとりがないと自分の意思に忠実な発言をしても、また、それがどんな誠意から出た言葉でも誤解される事もあり、口は災いのもとなどと言って、取り返しのつかない場面を生み出すことがあります。
かと言って余りにも慎重すぎて「私は貝である」や、「沈黙は黄金なり」などと格言に依存する生活態度も如何なものでしょう。時には冗談やジョーク、売り言葉に買い言葉などが飛び交う方がありのままが伝わり人間関係がうまくいくこともあります。
仏教の言葉に、「正見正語」というのがあります。文字通り、正見と正語は正しく考え正しく語ることで、いかなる時も正しく考えつくして、正しく発言せよと戒められているのですが、世間では誉めたつもりの言葉が相手にとって困ることになる場合があるので、まずは相手を知り、出来るだけ傾聴(相手の話を聞き心で受けとめる)の姿勢で臨むことこそが、正見正語を実践することのできる原動力になるのかもしれません。“ことば”は状況判断(TPO)と使いようで生きた言葉になります。
eお坊さんねっと 説話集より
参考:「天台宗法話集より抜粋・編集