説話「心を磨く」

ある寺院での昔の修行の様子です。『修行僧達は、毎年ある時期になると、清掃用具を一式持ち、お寺から町に出て無作為に一軒ずつ家々の玄関を叩き、“○○寺の修行僧ですが、お宅様のトイレ清掃をさせて下さい。”と言って町内を回るのです。もちろん町内で、その時期にお寺の修行僧達が、トイレ清掃の修行に来ることは風物詩となっていました。しかし、その趣旨にご賛同し協力いただける家は少なかったようです。「数少ない受け入れ先の家は一体どんな方なのだろう?」という疑問が湧きます。受け入れてくださる家々のトイレは、修行僧が清掃する余地のないほど清掃が行き届いているそうです。もちろん、他の部屋、庭なども同様に清掃が行き届いているとのことです。もし、汚れているトイレであれば、当然、他人に見られることが恥ずかしく、修行僧を受け入れることはできないでしょう。また、その寺院の来客用トイレの清掃は、古参の修行僧が行うことが慣例でした。来客に対する配慮は経験豊かな者の役どころ、といった考えと、若い修行僧達を指導する立場の者に慢心が生じないように、との配慮ということでした。トイレ清掃ひとつ取ってみても、日常生活を送る上での心掛け、配慮や精神面での精進など、いろいろ考えさせられることが多くあります。』
このことは、私が禅宗の寺で修行していたとき、住職から寺の清掃を指示された際に、「どの程度まで綺麗にしたらよろしいのでしょうか?」と尋ねた愚問に対して、「掃除は自分の心を磨くようにすればよろしい。そして、それを初心として忘れないように!」と重なる想いがあります。
「こころと命の相談室」快栄寺(eお坊さんねっと)説話集より
参考:「天台宗法話集より抜粋・編集