説話(観念)

諦める、または覚悟するという意味で使われる言葉です。 その他、ものごとに対する考え方とか認識を意味する場合もあります。 しかし一般には本来の意味が逆転して使われていることが多いようですが、そもそもは仏教語で、心静かに知恵によって一切を観察すること。または、ものごとを深く考えたり、見極めるという意味合いです。たとえば、坐禅に打ち込んでいるとき、はじめは心が充実していても、しだいに雑念や妄想が湧いてくるということがあるものです。 そんなとき、雑念と苦闘しながら、あくまでも坐り抜くことによって、「一寸坐れば、一寸の仏」といわれるように、それ相応の功徳はあるものです。そのような体験と積み重ねが、しだいに本物となっていくわけで、積み重ねるというプロセスが大切であり大きな意義があるのです。これは坐禅に限ったことではなく、書道や茶道、スポーツや音楽、各種職業でも同じことがいえそうです。積み重ねや試行錯誤のくり返しの結果、本物の「観念」が身について完成され、まとまっていくのです。
「ことばの旅」静岡県成道寺住職伊久美清智師著を参考&編集
「IT坊主の無駄方便」/eお坊さんねっと 説話集より